一次・二次史料で見かけた不気味な話

配信日時:2013-01-31 03:21:51

AWALKER VS F★ROUTE
i-mobile

2 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/09/10(金) 15:28:39 0
例えばこんなのとか

アテナイに幽霊の出る家があった。哲学者のアテノドルスが借りて住んでいた。
足に鎖、手に枷をはめられた幽霊が出て、ついてこいという身振りをした。
ついて行くと中庭まで来て、消え失せた。家主の許しを得て中庭を掘ったところ、
出て来たのは鎖に縛られた骸骨であった。葬儀をした後、幽霊に悩まされる
ことはなくなった。
(小プリニウス『書簡集』)

187 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/11/26(金) 23:20:39 0
『三国志』魏志・公孫淵伝より

公孫淵が魏に征伐される以前、彼の家ではたびたび奇怪なことが起こった。
たとえば犬が頭巾をかぶり、赤い着物をつけて屋根に上がっていたり、
飯を炊くと、蒸し器の中で赤子が蒸されて死んでいたりした。
また襄平の北では生肉を売っていたが、それは長さも太さも数尺あり、
頭と目と口があって、手足がないのにゆらゆら揺れ動いていた。
ある占い師は「形態があるのに完全でなく、肉体はあるのに声がない。
このような怪物の現われた国は滅亡するであろう」といった。

4 名前:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte [sage]投稿日:2010/09/10(金) 19:34:52 0
ある放埓な男が、妻の不貞を暴くべく梁の上にいたところ、転落して死んだ。
キリスト教徒として正しく葬られたのだが、生前の行動により益無かったものか、
悪魔の力により、夜毎に墓から出てさまよい歩く様になった。

かくして街中では犬の吼ゆる声が止まることなく、家々も閂を鎖して外には出ぬ
様にしていたが、それも効果は無かった。
それというのも、この男が歩いた後には、疫病が流行したからである。

その後、疫病で親族を失った兄弟が墓を暴いたところ、ほんのわずかな土の下か
ら男の死体が現れた。
体はふくれ、頬は赤く染まり、まるで生前の如し。
何人の血を吸いしやと、はっしと鋤で以って首を落とすや、鮮血が飛び散った。
かくして、さしもの疫病も止むに至ったという。
(『イングランド事件史』1196年)

12世紀頃のイングランドの記録には、東欧の「吸血鬼」伝承と共通した記事が
多く、近世以降の記録ではもっぱら東欧に限られた伝承が、この地域にも分布
していた時代があった様です。

13 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/09/11(土) 14:50:13 0
ケルン司教区のシュタムハイムという村で起こったことである。
騎士が二人住んでいて、一人はグンター、今一人はフーゴーと言った。
グンターが十字軍に出かけていた時のある夜、就寝前の用を足させるため
召使が子供たちを中庭に連れ出した。すると、囲いの外から白衣を着て
顔色も青ざめた女の形をしたものがじっと彼らを見つめていた。
何も言わなかったが、姿を見ただけでぞっとした。そのものは垣根を越えて
隣のフーゴーの地所へ行った。
数日後グンターの長男が病気になって、こう言った。
七日目に僕は死ぬ。その次の七日目に妹のディナリが死ぬ。もう七日すると
下の妹が死ぬ。全部その通りになった。そればかりか、子供たちの後を追って
母親も、上述の召使も死んだのである。同じ頃、隣の騎士フーゴーとその
息子も死んだ。これはわが副院長ゲルラック師から聞いた話である。
(ハイステルバッハのカエサリウス『対話』)

16 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/09/11(土) 21:59:57 0
トマス・ウォルシンガム『イングランド史』にある話

1379年の秋、アランデル伯の弟ジョン・アランデル卿が、配下の兵を
引き連れてとある尼僧院へとやって来た。
卿はブルターニュへ渡るため、ここでしばらく逗留したいといった。
院長は、アランデルが連れて来た武装した若者の数があまりに多いのを
恐れたが、渡航者へ宿を提供するのがその尼僧院のつとめであったので、
やむなくそれを許可した。
だが、風向きはいつまでも変わらず、出港はいつになるか見当もつかなかった。
退屈を紛らわすため兵士たちは酒を飲み、尼僧をからかい始めた。
尼僧たちは宿坊に鍵をかけて閉じこもったが、兵士たちは怒りに任せて扉を破壊し、
中にいた尼僧をつぎつぎと犯した。
尼僧院は兵士たちによって略奪された。彼らはまた近隣の教会へ向かい、聖杯や
銀器をことごとく盗んだ。そこで結婚式の行列に出くわすと、彼らは剣を抜き、
花嫁を強奪して輪姦した。
兵士たちはその女とできる限り多くの尼僧を船に乗せて出港した。一日かそこらの
後、東から大嵐が吹きつけてきた。アランデルは船を軽くするために女を全員
下ろせと命じた。六十人ばかりの女が荒れ狂う海に投げ込まれ、船はアイルランドへ
向かった。

やっぱり一番怖いのは人間。

17 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/09/11(土) 22:10:34 0
うわあ、オチがつかないのかw

31 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/09/13(月) 21:41:54 0
『ヨーハン・ディーツ親方自伝』より

これはある軍医に教えてもらったことだが──この人物はオランダ大使の
もとで働いていたとき、瀕死の重傷を負ったあるトルコ人の治療に当り、
そのトルコ人からひじょうに気に入られたのでたびたびその家に招かれた
のだが、女の姿をついぞ見たことがなかったという──軍医はそのトルコ人に
ぜひともご令室にお目にかかりたいと頼んだ。トルコ人はいいともと請け合い、
一緒に階上の妻屋つまり小部屋まで連れていってくれた。見ると、部屋の
中ほどにみめ麗しきご婦人が六人もいて、絨毯の上にじかに足を組んですわり、
刺繍や縫い物をしていた。みな驚いてはにかむような表情をみせた。

するとトルコ人は、「わしについて来なさい。ほかの女も見せてしんぜよう」と言った。
トルコ人は軍医の手をとり、階段を下りていった。よろい戸のかんぬきを外して開け、
中をのぞいてみなさいと言う。中は真っ暗で何も見えなかったが、藁の中で何か
金属のような音がたしかに聞こえた。それからトルコ人がもう一つのよろい戸を開けると、
すっかり明るくなった。軍医が見たのは残酷な見世物だった。全裸の女が一人、乱れ髪を
顔のまわりに垂らしたすがたで、鎖につながれて横たわり、そのそばに、なかば
喰いちぎられた人間の死体がぶら下がっていたからである。軍医はぎょっとして
飛びのき、これは何かと訊ねた。
これも妻の一人ですが、背教者(つまり、かつてキリスト教徒であったが、イスラム教に
改宗してトルコ人となった者)、ほら、そこにぶら下がっている男と情を通じたのですよ、
とトルコ人は軍医に説明した。男を現場で捕らえて刺し殺し、ここにぶら下げたのだ。
しかし女はこれを食らうほかない、いずれ飢え死にするであろうが、と。

32 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/09/14(火) 10:36:45 0
ダンテの神曲にもウゴリーノ伯の「飢餓の塔」の話がありますね
でも、21世紀になっての発掘調査によると、ウゴリーノたちの死因は飢餓ではなかったとされたのでしたか

38 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/09/16(木) 21:50:20 O
晋書より
厚遇していた前秦の苻堅を裏切って死に至らしめた後秦の姚萇が病床で見た夢の話
苻堅が鬼兵を率いて営中に入り込み、萇は恐れて宮殿へ逃げ込んだ。
宮人が鬼を刺そうとして誤って萇の股間を刺した。
鬼が互いに言った「死所にあたった」
刺さっていた矛を抜くと血が大量に吹き出した。
夢から醒めると激しい動悸がしており、ついに陰部の腫瘍を患った。
医者がこれを治療の為刺すと夢のように血が吹き出した。
萇はとうとう譫言を言うようになった「陛下を殺した者は私の兄であって臣の罪ではありません。どうか臣をお許し下さい」

39 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/09/16(木) 22:04:15 0
>>38

睾丸の癌かね。晋書は「小説」を多く採っているらしい。

45 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/09/16(木) 23:51:04 O
晋書劉聡載記に気味悪い話が…

巨大な肉の塊が落下し、その周辺に泣き声がしていて昼夜やまなかった
皇后劉氏が蛇と猛獣を産み、これらは人を害しながら逃亡して行方不明となり、その後肉塊の傍らで見つかった
突然劉氏が死亡し、肉塊は消え失せて泣き声も止んだ

46 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/09/17(金) 06:46:46 0
>>45
中国の怪異譚は因果関係がよく分からなくて怖いのが多いね
当時の人間には解読?できたのかもしれないけど

オカ板の怖い話にも過去の世界の因縁のコードを理解
できないことによる恐怖というのが多いような気がする

60 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/09/19(日) 09:11:27 O
また晋書のはなしだが…

後趙の石虎が太武殿を完成させた際に昔の聖賢・忠臣・孝子・烈士・貞女の絵を描かせた
その絵が皆胡人に変じ、頭が肩の中にめり込んで冠や髪が僅かに出るだけとなった
石虎はこれを非常に不快に思って誰にも言わなかった
佛図澄は石虎に向かって涙を流し、自ら申し出て自分の墓を作った
寺に戻ると独り言を言った「三年を得られるだろうか」「得られない」「二年、一年、百日、一月を得られるだろうか」「得られない」そのまま黙り込んだ
寺で亡くなったが、のちに西からやってきた沙門が佛図澄が西の関中に現れたと告げた
石虎が佛図澄の墓を掘らせると遺骸はなく、石がひとつあるだけだった
石虎はこれを不快がって言った「石は朕である。我を葬って去ったというのは吾がまさに死ぬということだろうか」病を発して翌年亡くなり、国は大乱に陥った

79 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/09/24(金) 00:01:38 O
五胡時代の話だと後趙の石虎が死んだあと、前燕の慕容シュンの夢に現れて腕に噛みついたというのもあったな

慕容シュンはこれで病気になり、石虎の墓をあばいて死骸を踏みつけてから黄河に放り込んだが流れずに柱に引っかかったままになった
後に前秦が前燕を滅ぼしてから死骸を回収して葬ったという話だった

晋には現れない妖しい話がワンサカ…

80 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/09/26(日) 00:18:16 0
何で正史にそんなエログロオカルトばっかり載せているんだ。

81 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/09/26(日) 05:17:07 0
刷り込むためには、興味を持って読んでもらわないといけないからじゃないかね。

83 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/09/26(日) 20:05:36 0
当時は分かりやすい話だったのが時代を経て
コピーエラー等が蓄積して気がついたら
怪異譚にしか見えなくなっていたとか?

87 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/09/28(火) 12:15:38 O
またまた晋書
諸葛長民伝より

長民が富貴となった後、ひと月のうちに十数回も眠っていたところを飛び起きて人と組み打つような動作をした。
毛脩之がかつて同宿した際にこれを目撃し、驚いて理由を問うた。
長民が答えて言った「真っ黒で毛が生えた物がいるのが見えるが、我でなくては制することができないのだ」

屋内の柱の間から蛇の頭が出てきた為に人に刀で斬りつけさせたが、蛇は刀が近づくと引っ込み、遠ざかるとまた出てきた。

衣を引っ張って話しかける声が聞こえたが、その言葉は理解できなかった。

壁から長さ七八尺の巨大な手が出現し、これを切らせると突然見えなくなった。

その後間もなく誅に伏した。

91 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/09/29(水) 14:19:47 0
「ヨーハン・ディーツ親方自伝」より
ゲルマン圏でよく見られたという「荒ぶる狩猟」の一種でしょうか

このあたりの山地でリューベツァールのことがさかんに話されているのを
耳にした。そして一夜をその山麓で過ごしたのである。火のないところに
煙は立たぬ、流刑の森の精か悪魔かが悪さをしないとも限らぬ。その証拠に、
夜、ある家で藁の上に横になっていると、深夜に馬と犬と狩人のものすさまじい
ざわめきと反響が、何度も家の前を通りすぎていくのを、わたしはこの耳で
聞いた。こんなことは毎晩で、めずらしくもなんともないと人々は言った。
ほかにも、リューベツァールは人々を迷わせる、そいつをからかう者の上に
雷雨を引き起こすことができるなど、リューベツァールの言い伝えには
事欠かなかった。真偽のほどについては、どちらとも答えないことにする。

96 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/10/02(土) 14:22:06 O
また晋書のはなし
劉聡載記より

劉聡の東宮の四門が突然理由もなく崩壊した。
のちに女人が男子に変じた。
聡の子約が死んだが、一本の指だけが暖かかったことから葬らなかった。
蘇って言うには…

不周山で劉淵に会い、従ってコンロン山に至った。
三日してまた不周に帰るとすでに死去した公卿将相が皆おり、壮麗な宮室を営んでいて蒙珠離国と号していた。
淵が約に言った
「東北には遮須夷国があるが久しく主がなく、汝の父がやって来るのを待っている。
汝の父は三年後にやって来るが、その後国内は大乱に陥って殺し合って我が家は殆ど死に尽くす。
ただ永明(劉曜)ら十数人だけが残るだけだ。
汝は一旦還っても後年また来ることになるだろう」
約は辞して帰ったが、道中で猗尼渠餘国を通過すると宮に引き入れられて皮嚢一枚を与えられ「漢皇帝に遣わす」と言われた。
帰ろうとすると「あなたは後年必ずここを通過するので、娘を妻にしよう」
約は帰ると皮嚢を机の上に置いた。

蘇って左右の者に皮嚢を取らせて開いてみると、白玉があって「猗尼渠餘国天王が遮須夷国天王に送る。後に会うことになるでしょう」と刻まれていた。
聡にこれを見せると聡が言った「このようなことならば死を懼れることはない」
聡が死ぬと、この玉を一緒に葬った。

97 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/10/02(土) 14:31:20 O
上記の後年のこと

鬼が光極殿で哭き、また建始殿で哭いた。
平陽で十里に渡って血が降り注いだ。
聡の子約はすでに死んでいたが、その姿が見られるようになった。
聡はこれを非常に不快がって太子粲に言った
「吾が病床につくようになってから怪異が甚だしい。
かつて約は妖言をなしていたが、ここ数日姿が見えるようになったのは吾を迎えにきたのだろう」
太興元年に聡は死んだ。

102 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/10/05(火) 09:47:16 0
ロバート・D・カプラン『バルカンの亡霊たち』より

一九四一年一月二二日の夜、「大天使ミハイル軍団」は正教会の
賛美歌を歌い、ルーマニアの土を入れた袋を首にかけ、互いの血を飲み、
聖水を身体にかけて浄めを受けたのち、子供を含む二〇〇人の男女を
家から引きずり出した。そして、彼らをトラックに詰めこみ、ブカレスト
南部にあるドウンボビツア川近くの赤煉瓦の建物、市営の屠畜場に
運んでいったのである。犠牲者はすべてユダヤ人で、凍えるような暗闇の
なかで裸にされ、ベルトコンベアの上で四つん這いにさせられた。こうして、
恐怖の叫び声をあげながら、ユダヤ人たちは全自動化された屠殺装置の中に
送りこまれていったのである。頭と手足を切断され、血が噴き出している
胴体を軍団員はひとつずつ鉤にかけ、「食用可」というスタンプを押して
いった。逆さまに吊るされた五歳の少女の胴体は「血まみれで、仔牛肉の
ようだった」と、翌朝、現場を目撃した人は証言している。

109 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/10/06(水) 18:41:18 0
代に甘寧の子孫である「甘卓」という人物が登場する。伝も立っている有力者で、それによると、甘寧には甘述という息子がおり、その息子が甘昌、そしてその息子が甘卓であるという。
この人物は、非業の死を遂げたようで、「死の前日、ふと井戸を見た。井戸水に映る自分の姿に、首から上がなかった。これは彼の死を暗示してたのである」という猟奇話が残っている。

110 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/10/06(水) 18:44:46 0
ちなみに甘卓を斬ったのは王敦

甘卓
 字は季思。丹陽の人。三国呉の折衝将軍甘寧の曾孫。江南有数の武門で、八王の乱で呉王常侍を辞して洛陽を離れる途上、陳敏に自立を促して江南勢族との連和を成功させたが、
程なく顧栄らの勧めで離背し、陳敏覆滅の主因となった。東晋が興ると王敦に属して襄陽に鎮し、王敦の建業攻略に乗じて挙兵したものの敗死した。

111 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/10/06(水) 20:06:07 0
何で中国って死兆のバリエーションがやたらと多いんだ

112 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/10/07(木) 23:52:45 O
晋書のはなし

前燕の慕容コウが狩猟をしていた際に河を渡ろうとして、朱衣・白馬の一人の父老に出会った。
その父老は手を上げてコウに言った「ここは狩猟すべきところではないので王は還られるように」
コウは従わずに河を渡ったが、連日大収穫を獲た。
白兎を見つけてこれを射ようと馬を走らせたが、馬が倒れて負傷した。
車に乗って宮殿に帰還し、(慕容)シュンを呼んで後事を託した。
在位十五年で亡くなった。

114 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/10/11(月) 21:24:41 O
蜀書トウ芝伝と注より


トウ芝は延熙十一年に発生した反乱を軍を率いて征伐して頭目をさらし首にした。
十四年に死去した。

トウ芝が遠征した際に黒い猿が山沿いに行くのをみつけた。
芝はいしゆみが好きだったので、自ら猿を射て命中させた。
猿は矢を抜くと木の葉で傷口をふさいだ。
芝は言った「ああ。わしは生物の本性にそむいてしまった。まもなく死ぬだろう」


136 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/10/16(土) 22:28:58 O
晋書より

後趙の石虎の子である石宣が兄弟の石トウを殺そうとしていた時のこと
石トウがやってくると、佛図澄はこれを凝視した。
トウが懼れて理由を問うと答えて言った
「あなたが血の臭いがするので見ていたのです」

宣が人を遣わしてトウを寺の中で殺した。

137 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/10/16(土) 22:57:59 O
また晋書のはなし

苻堅載記より
堅が在位して五年、鳳凰が集まったことからその境域内に大赦を施行し、百官の位一級を進めた。

はじめ堅が大赦を行う際に、王猛・苻融と露堂で密議した。
堅が自ら赦文を作り、猛・融が紙と墨を供した。
一匹の蒼い蠅が入り込み、大きな音を立てて筆の辺りを行き来した。
突然長安の街中に「大赦が行われるぞ」との噂が流れ、有司が報告した。
堅が驚いて融・猛に言った「禁中で誰も聞いていないのに、どうして泄れたのか?」
命を下して探させると、一人の黒衣の小人が街中で「大赦が行われるぞ」と大呼してすぐ見えなくなったとの報告があった。

140 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/10/17(日) 18:12:40 0
晋書って太宗皇帝自身も編纂に携わっているよな。
なんでこんな怪談ばっか載せたの?

148 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/10/22(金) 09:29:47 0
カトリックには「エクソシスト」がいる

その人たちについて書かれた本をよんだことあるけど、
悪魔つきは、ほとんどの場合、精神病だとエクソシスト自身がいっている
16世紀の悪魔祓いでクライアントが吐いた釘は16世紀の技術で作られたもので、
20世紀の悪魔祓いでクライアントが吐いた釘が20世紀の技術で作られたものなのは、どうしてだろう、って
「これが逆なら驚きますが」とエクソシストの資格のある神父さんの言

ただ、ときどき、理解に苦しむのもあって、それは本物の悪魔つきなのか、
現代の精神医学では対処できない精神病なのかはわからない・・・ともおっしゃってた

映画「エクソシスト」のモデルになった神父さんは、とても立派な方で、
確かに超能力を持っているのではないかと思わされるような人だったらしいが、
その人の生い立ちを見ると、少年時代に修道院に入って、現在の目から見たら、
児童虐待じゃないかと思わされるような厳しい修行を積んだ人

もともとその素質があり、なおかつ、幼い時からそのための厳しい修行を積んできた人のみがもつことのできた、
集中力・洞察力その他からくる「超能力」だったんだろうな

150 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/10/24(日) 23:16:15 0
アーサー王がなぜかシチリア島で魔王になっている話
ハイステルバッハのカエサリウス『奇跡をめぐる対話』より

皇帝ハインリッヒがシチリアを征服した頃、パレルモの教会に首席司祭がいたが、
彼は確かドイツ人だったと思う。ある日、素晴らしい馬がいなくなってしまったので、
彼は召使にあちこち探させた。途中で出会った老人が召使に尋ねた。「どこへ
行くのかね、そして何を探しているのかね」。「主人の馬を探しているのです」。
召使が答えると。老人は「わしは馬がどこにいるか知っておるよ」という。「では、
どこにいるのですか」と尋ねると、老人は答えた。「ギベル山だよ。私の主人の
アーサー王がその馬をもっておられる」と。その山はエトナと同じく炎を吹き上げて
いた。老人はいった、「お前の主人に、一四日目にあの山の宮殿に来るように
いいなさい。もしお前が伝えないと、厳しい罰を受けるぞ」。
召使は戻って主人におののきながら、聞いたことを伝えた。首席司祭はアーサー王の
宮殿に招かれたことを聞いて笑いとばしたが、やがて病気になり、指定された日に
亡くなった。この話はボンの聖堂参事会員をしているゴットシャルクから聞いた話
だが、彼はそのときパレルモにいたという。

当時、火山は煉獄の入り口と考えられていた。

151 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/10/25(月) 01:55:28 0
アーサー王は、妖精郷とかそういう、
いわゆる「常世」「あの世」と相性が良い伝説の人だからなぁ。
「あの世」の関係者として魔王的に伝承されてもおかしくないわな。

172 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/11/25(木) 21:20:06 O
魏書李勢伝より

建国十年司馬【耳冉】の将桓温がこれを伐ち、勢は温に降った。
これより以前怪異がしばしば発生した。
成都の北郷である人が女子が草の中に入るのを見かけた。
行って見てみると人のような形ではあるが手足はなく、ゆらゆら動いたが言葉を発することはできなかった。
広漢で馬に長さ一寸半の角が生えた。
一頭で六つの耳があり目はなく牡牝二身を持つ馬が現れた。
皮も毛もない驢馬が現れたが、数日して死んだ。
江南の地に血の雨が降り、地面に毛が生えた。
江源に高さ七八尺で花も葉も赤い草が生えた。
フリョウの民薬氏の妻の頭上に長さ三寸の角が生えた。


これだけ列挙するのは特定の意図によるものだろうね…

213 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/11/29(月) 22:49:26 O
晋書のはなし

馮バツ載記より
井戸が渇して三日後にもとに戻った。
尚書令孫護の里において犬と豕が交わるということがあり、護はこれを不快に思って太史令ビン尚を召し寄せて占わせた。
尚が言った「犬と豕が異類どうしで交わったのは性に違いその根本を失ったのであり、乱によって衆を失って敗亡するというものを示します。
あなたは位を極め、諸弟は皆列侯となって王室を傾ける程になっています。
妖異が里に出現したのは他家を示していないことであり、あなたは過ちのないよう慎まれますように」
護は黙然として喜ばなかった。
護の弟伯仁・叱支・乙抜らは才力があり勇をもって知られていたが、待遇の不満を現したために誅殺された。
馮バツは護を左光禄大夫・開府儀同三司・録尚書事として慰めたが、護が不満を表情に現したために酖殺された。

217 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/12/07(火) 01:33:36 0
↓易経を学ぶ人には有名な話。

元治元年のこと、佐久間象山は公武合体論と開国論を説くため、
一橋慶喜に招かれて上京することとなった。
象山は日頃、易占を行って行動を決していたが、今回は筮を立てようとしない。
不思議に思った弟子が尋ねても、象山はもっぱら
「易は心に惑う時にするものだ。今度のことは吉凶問うところでない」
と言うのみであったが、ついに弟子のたっての望みで占ってみた。

得た卦は、沢天夬の上爻変。易経には「无號、終有凶」とあり、
小人が泣き叫んでも遂には殺される、という明らかに最凶の卦。
しかし象山は動ぜず、駿馬を求めて京へと出立した。

途中、美濃国大垣にて知人、小原仁兵衛の邸に寄り、大いに歓談した。
その内、小原氏が象山にふと「今回は易占は立てましたか?」と問い、
象山が沢天夬の上爻変を得たことを告げると、その場で小原氏は黙してしまった。

小原邸を発して京都に上り、諸法を遊説して帰国しようとした矢先、
三条木屋町で、河上彦斎等の手にかかり暗殺された。


出典は象山の門弟で後の外務書記官、北澤正誠の談話を
高島嘉右衛門が聞きとったものらしい。

223 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/12/10(金) 08:28:52 0
以前、高島嘉右衛門の小説(高木彬光著)を読んだことがあるんだが、
結局、易で出てくるのは、とても抽象的なもので、それをどう判断するかが重要

高島は、当時「易聖」といわれた人で、今でも易者が高島を名乗るのはそのせいなんだそうだが、
結局、当てたのは、本人の判断力、洞察力、決断力の方が大きいと思ったな

そして、高島自身が、「ことごとく易を信ずれば、ことごとく無きにしかず」なんて言葉を残している

253 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/12/12(日) 00:34:46 O
魏書張ショク伝より
宋氏滅亡の凶兆のはなし

張玄靖は宋混を驃騎大将軍・尚書令とした。
混が病死すると弟の玄安が代わった。
旱に際して帯石山を祈り、玄安が登ろうとするとその弟が言った
「世の人はこの山に登る者は家を破り身を亡ぼすと言っております」
玄安が言った
「そのようなことがあろうか」
馬を走らせて登ったが、馬が倒れて足を負傷した。

御史の房屋の柱がひとりでに燃え上がって折れ、ある人が言った
「柱の字は左に木、右に主であり、『宋』の字は木を含む。
木が燃えたことは宋が破れて主が存することを示していて災いの大なるものであり、異変を防がれますように」

乗馬五頭の中には一夜にして鬣と尾の毛が抜け落ちるものがあった。
ある人が言った
「尾の字は尸の下に毛があり、毛が尸を去るのは絶滅を示している」
玄安が言った
「吉凶は天にあって、知はどうすることもできない」

それから間もなく司馬の張ヨウが起兵して玄安を殺し、宋氏をことごとく誅した。
これより先謡があって言った
「宋を滅ぼす者は田土子である」
ヨウは一名を野という。

254 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/12/12(日) 01:21:53 0
そういえば・・・
南宋が元に滅ぼされたときの話だが、その時、皇帝はまだ幼く、太皇太后が政治を見ていた
そして、占い師から、目が100ある男が現れるときが、南宋の滅びるときであるといわれた
そんな人間などいるわけなく、太皇太后は安心した

そして、元が攻めてきたとき、その元側の司令官の名は、伯顔といい、百目の男という意味だった、
って話があるね

256 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/12/12(日) 02:27:24 0
>>254
バヤンか。
東方見聞録の愉快な誤訳だっけか。

266 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/12/13(月) 00:09:05 O
魏書【冫馬】文通伝より
北燕滅亡の凶兆

太延二年、高麗がその将を遣わし、和龍城に入って迎えた。文通は城内の士女を引き連れて高麗に入った。

これより以前、その国の狼が夜大量に城において鳴くということがあった。

その末年には城の西に鼠が数里を満たす程に集まった。
西に進んで水に至ると前に進む者の尾を噛んで連なり、その上をあとから来た者が渡った。

宿軍において地面が燃え、一旬して消滅した。
地から蛆が生まれ出たが月余にしてこれが止まった。
和龍城において長さ一尺二寸の白い毛が生じた。

286 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/12/21(火) 22:19:58 O
晋書呂光載記より
呂光が前秦の将軍としてクチャを攻めた時のこと

亀茲王帛純が光を防ぐと、光はその城南に布陣して五里ごとに一営を置き、深い溝を掘り高い塁を設け木に甲を被せて疑兵とした。
帛純が城外の人を城内へ移し、付属する侯王はそれぞれ城に拠って守りを固めた。

ここにおいて光の左腕の内側に脈が起こって「巨覇」という字をなした。

営外に夜になって頭に角があり目が電光のように光る黒い物体が出現したが、夜が明けると雲霧が発生してその物体は見えなくなった。
その物体の現れた場所を見ると、南北五里東西三十歩に渡って光が残っていた。
光が笑って言った「黒龍である」
突然雲が西北に発生して痕跡を大雨が消し去った。
部将の杜進が言った「龍は神獣であって人君が現れるという兆しです。
どうか将軍には励まれますように。
大きな喜びを招くことができるでしょう」
光はこれを喜んだ。

進んで亀茲城を攻めると夜に金の像が城外へ飛び出すという夢をみた。
光が言った「これは佛神が去るということであり、胡は必ずや亡ぶだろう」

帛純はカイ胡に救援を請うたが、光は城西において戦ってこれを大破し帛純は逃走した。

293 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2010/12/25(土) 20:56:12 0
『三国志』東夷伝・東沃沮の条より

魏の将軍が高句麗王を追撃して、北沃沮(今の北朝鮮北東部・咸鏡道)から海(今の日本海)に至った。
そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるのだろうか」と尋ねると、様々な答えがあった。

「昔、ここの者が漁にでたまま暴風雨にあい、10日間も漂流し、東方のある島に漂着したことがあります。
 その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では毎年7月に童女を選んで海に沈めます」
「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります」
「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。
 その胴の長さは普通の着物と変わりませんが、両袖は三丈(約7m)もの長さがありました」
「かつて難破船が海岸に流れ着いたことがあります。
 その船には、うなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、生け捕りにされました。
 しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました」

303 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/12/28(火) 13:39:54 O
三国志呉書諸葛恪伝より

諸葛恪が誘殺されたときのこと

孫シュンは孫亮と計略を練ると酒宴を用意して諸葛恪を招いた。
恪は孫亮に目通りすることになった前夜、心が惑い胸騒ぎがして一晩眠ることが出来なかった。
夜があけて顔を洗おうとすると、水が生臭かった。従者が上着を着せようとすると、その着物も臭かった。
訝しんで衣服も水も換えさせたが、臭いは相変わらずで心が沈んで面白くなかった。
従者を従えて家を出ようとすると、犬が着物をくわえて引っ張った。
恪は「犬はおれを行かせたくないのか」と言い、内に戻って座った。
しばらくして再び立ち上がると犬がまた衣服をくわえた。
恪は従者に命じて犬を追わせると、馬車に乗った。

かつて恪が淮南の遠征に向かおうとしていたとき、喪中の者が喪服をつけたまま役所に入り込むということがあった。
その者に問いただしたが、「自分でも知らぬうちに中に入っておりました」と答えた。
このとき役所の内外には警備の者たちがいたが、誰もこの者が入るのを見ておらずに人々はみな不可思議なことだと思った。
恪が淮南の遠征に向かったあと、彼が平生執務していた役所の屋根の梁が真ん中から折れた。
合肥新城を離れて東興に軍を留めていたとき、白虹が彼の船に現れ、帰還して孫権の陵に参拝したときにも白虹が彼の馬車にまとわりついた。
孫亮に目通りすべく参内したが、孫シュンによって殺された。

のち孫シュンは諸葛恪に殴られる夢を見て、恐れのあまり病気を発して死んだ。

307 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/12/30(木) 10:42:15 O
魏書姚興伝より
姚興の弟姚平が柴壁において魏軍と対峙し、興はこれを救援しようとしたが救うことが出来ずに平の軍は壊滅した。
興が長安に帰還した後のこと

雀数万が廟において争い、死ぬ者が多数あったがこれが月余続いた。
識者が言った「今廟上で雀が闘ったことは子孫の中に争乱があることを示す」
また興の殿において牛が吼えるような声があった。
二匹の狐が長安に入って一匹は殿屋に登って宮に走り込み、もう一匹は市に入って探し求めても捕らえることが出来なかった。

興の存命中に子の弼が反乱を企てた他、興が死んで子の泓が立った後にも弟の懿や従弟カイが挙兵して長安を攻めた。
劉裕が長安を攻めると泓は敗れて降を請い、建康の市において斬られた。

317 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/12/31(金) 18:59:26 0
近代西洋でも、占いとかオカルト類はあくまでアングラ扱いだが、
カトリック教会では公式に超常的な奇跡を認めてるよね。


・・・てことで、本題に戻って。有名な話を。すまんが適当にネット上から抜粋する。

1916年春頃、一人の少年がポルトガル中部のファティマという小さな村に現れ、
村の3人の子供(ルシア、ヤシンタ、フランシスコ)に祈り方を教えた。

1917年5月13日、ファティマの3人の子供たちの前に謎の婦人が現れ、毎月13日に同じ場所へ会いに来るように命じた。
子供たちは5か月の間、毎月彼女と会い、いくつかのメッセージを伝えられた。

婦人の姿と声は3人の子供たちにしか見えなかったが、
一緒に行った村人たちは卵型の光る物体が降下してくるのを見たという。
この話は次第に近隣の町や村へ伝わっていき、最後の出現の日である10月13日には、
国中から10万人もの人が集まった。

その日どしゃぶりの雨の中を一万人もの群集が聖母の現れるくぼ地の周囲に集まった。
熱心な祈りをささげる信者たちにまじって、∃−ロッパ各地からやってきた
新聞記者や学者、聖職者たちの姿も見られた。
昼すぎ、小さな白い雲が子ともたちの周囲にわき出て、ゆっくりと空中高く上昇していった。
と同時に激しく降っていた雨がピタリとやみ、
空をおおっていた雨雲が割れて銀色に輝く一個の光球が現れた。
それは急速に回転しながら、無数の光線を放射しはじめた。
光線は黄、赤、青、紫とさまざまに色を変え、7万の群集に降りそそいで、大地にあふれた。

「奇跡だ!奇跡が起こったんだ」という叫び声があちこちからあがり、
人びとの熱狂と興奮の中で一連の「ファティマの奇跡」は幕を閉じた。
これは、集まった10万人の人々に一部始終目撃された。

318 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2010/12/31(金) 19:00:16 0
そしていつもの婦人(聖母)はやはり3人の子どもだけに聞こえる声で、
この地に礼拝堂を建てるように言い、3つの予言を告げた。


1、悪魔と地獄の現存:多くの人々が悪魔によって地獄へ導かれている。七つの大罪などの罪、
 特に肉欲の罪から回心しないままでいることにより人は地獄へ行く。

2、人類の危機:全人類の大半を数分のうちに滅ぼす武器が戦争で使用されることによって、
 人類が瞬時に滅ぼされる可能性がある。

3、教皇暗殺の危機:これについては口外されなかった。
(現在のカトリック教会の公式見解では、1981年のローマ法王パウロ2世の狙撃事件の予言だとされている)


フランシスコとジャシンタの二人は、6月の聖母マリアの出現の際に、
もうすぐ天に召されると予言されていた。
実際にその後、第一次世界大戦終結後に病気で夭逝した。
最後の一人ルシアは、その後修道女になり、2005年2月13日、
97歳でコインブラの修道院で死去した。

ファティマでの事件はその後、カトリック教会によって
正式に「奇跡」として認められている。

http://www.cbcj.catholic.jp/publish/roma/fatima/fatima2.html

328 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/01/02(日) 10:54:18 0
スレの趣旨に適うか微妙だけど怪生物もどき

ヘロドトス『歴史』より 北インドに住む種族が金を漁る話

 さてこの蟻は砂を掻き上げては地下に巣を作り、そのやり方がギリシアで蟻のするのと全く同様で、その形状も酷似している。
そしてこの蟻の掘り上げた砂が金を含んでいるのである。
インド人はこの砂を目当てに無人地帯に出かけるのであるが、
各自三頭の駱駝に軛をかけ、牝駱駝を真中に、左右に牡駱駝を一頭ずつ網で曳くように配置する。
その際この牝はなるべく仔を生んで間のないものを軛につけるように配慮する。

                  (中略)

 さてインド人は袋をもって目的地へ着くと、袋に砂を満たして大急ぎで引き返す。
蟻は忽ち臭いをかぎつけ(とはペルシア人の話であるが) 追跡してくるからである。その脚の速さは他のどの動物も及ばぬほどで、
インド人たちは蟻が集結している間に先に進んでいない限り、一人も助からぬであろうという。
牡の駱駝は牝よりも脚が遅いので、落伍すると途中で離されるが、2頭同時に離すことはない。
牝駱駝の方は後に残してきた仔のことを想い出して決して速度をゆるめぬという。
インド人はその金の大部分をこのようにして採取する、とペルシア人は語っている。

440 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/01/08(土) 02:20:56 0
ビザンツ帝国の史家ニケタス・コニアテスによると、12世紀末の
コンスタンティノープルにバシラキオスという狂人がいた。
その男は未来を占えるという評判があり、人々は長蛇の列をなして
彼のところへやってきたという。
コニアテスに言わせれば「その男の予言は当ったためしがなく、その
言葉遣いは間違いだらけで、支離滅裂で、秘密めかしていた」。
そしてそんな馬鹿げた行いに引きつけられるのは田舎者や無知な者
だけだったと記している。

だがその評判は皇帝の耳にも届いたらしく、バシラキオスは宮殿に
召し出され、当時のイサキオス2世によって未来を占うよういわれた。
バシラキオスはまったく場所をわきまえない様子で、奇声をあげて
そこら中を走り回り、壁にかかっていた皇帝の肖像画の両目に穴を開け
イサキオス2世の頭から被り物をひったくった。

その後クーデターが起き、イサキオス2世は帝冠を奪われ、両目を潰された。

443 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/01/08(土) 10:03:32 0
>>440
ギリシャ正教圏で君主の両目って思いっきり廃位フラグじゃん・・・

むしろ無関係にクーデター計画してた連中が、その予言を聞いて
決行に踏み切ったとかだったら別な意味で洒落にならんな

502 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2011/02/02(水) 20:54:01 O
晋書劉曜載記より
劉曜の見た夢のはなし

劉曜は金色の顔に真っ赤な唇をした三人の人が東に向かって逡巡し、何も言わずに退くという夢をみた。
公卿を召してこれを議すと、朝臣は皆吉祥だとして賀した。
その中で太史令任義が進み出て言った
「三は暦運の極みです。
東は王者の次を差し、金は物の衰えをいいます。
逡巡したことは退舎の道を示します。
東井は秦の分野であり、五車は趙の分野です。
秦兵は必ず主を失い、趙の地において敗れることとなるでしょう。
遠ければ三年、近ければ七百日にしてこれが実際に起こるでしょう。
どうか陛下にはお考えになって防がれますように」
曜は大いにおそれて神祠を繕った。

のち劉曜は金ヨウを攻め、石勒と戦って敗れて捕らえられた。

509 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2011/02/08(火) 20:18:14 O
三国志呉書三嗣主伝注より
楚国先賢伝に記載の孟宗のはなし

孟宗の母は特に筍を好んだ。
このとき初冬のことで、まだ筍が生えるような季節ではなかった。
孟宗が竹林に入って願うと筍がこれに応じて顔を出したため、これを掘り取って母親に食べさせることが出来た。
人々はみな彼の篤い孝心が感応を起こしたものだと言った。

534 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2011/03/30(水) 09:20:24.62 0
アーサー・マッケンが第一次大戦のフランス戦線で
百年戦争のロングボウ隊の亡霊が現れて英軍の危機を救う小説を書いたら
作者の与り知らぬところで実話として広まってしまったらしいが
情報伝達のスピードが遅い昔はこういうことが結構あったんだろうな。

542 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/04/06(水) 01:58:04.90 0
ウイグル王家の起源神話も宇宙人ぽくて怖いわ

ある時二本の樹の間に天から光が降ると、そこに塚が盛り上がり
毎夜光を受けて塚は日に日に大きくなった。そしてついに
妊婦の分娩のときのように塚が開いて、「内に一つずつ別々に
なったテント状の小室が五つ現れ、それぞれの内には男の児が
一人ずつ坐っていて、その口の前には管が下がっていて必要な
乳を供給しており、テントの上には銀の網が延びていた」。

五人の子供はその後ウイグル族に育てられて王族となり、各地を
征服したとのことである。
(ジュワイニー『世界征服者の歴史』より)

547 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/04/11(月) 22:53:34.13 0
マゼランがフエゴ島行ったとき、カヌーしか知らない原住民にはマゼランらの巨大な船が見えなかった、
みたいな話がある。
ttp://blog.goo.ne.jp/nbrisi/e/3208cb60e9732e3a67b13ef0a5306445
で、マゼランの記録見てみたら、該当箇所であろう箇所は
その男は提督とわれわれの面前に来ると、ひじょうに驚き、われわれが天から降りてきたものと信じて、
指を一本高くもちあげる格好をした。「大航海時代叢書1」岩波書店505ページ。
としかないんじゃなかろうか。
つまり、船を見た上で、いわばUFOが降りてきたのか!的な驚き方をしたんじゃなかろうかって思えるが。
船が見えないってのはあり得ないだろう。
ならば黒船が来たとき、日本人の中にも黒船が見えねー奴がいたとしてもおかしくなかろうって思えるし。

554 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/04/13(水) 08:24:36.89 0
>>547
一次二次史料で見かけた不気味な話というより曲解されてトンデモ話になって伝わった例って感じか

565 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/04/16(土) 18:35:06.23 0
アマゾンあたりに見つかったとかいう裸族が撮影してるヘリコプターに弓矢を射ってる映像があるな。
彼らからすればSF的なものだろうけで理解が難しいかもしれないがともかく見えてるわけで。
認識できないから見えないなんてことはあり得ないだろう

572 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/04/24(日) 18:29:38.23 0
「病膏肓(やまいこうこう)に入る」有名すぎるから誰も書かないのか? 長いが載せとくぞ。

出典は左伝。晋の景公はある晩恐ろしい夢を見た。巨大な幽鬼が躍りあがり
ながら襲いかかるというような内容だった。早速巫師を呼び夢の意味を問う。
「公は秋麦を召し上がることはできますまい」(それまでに命が尽きる)
これが答えだった。程なく景公は重病を患い床に伏した。
景公は隣国の秦(勿論その後の戦国時代の始皇帝の秦ね、念のため)から
桓という名医を呼ぶこととした。とは言え隣国とて道中長く中々到着しない。
(続く)

573 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/04/24(日) 18:32:07.21 0
(病膏肓の続き)
そんな日々、景公はまたも夢を見た。なんと病魔が二人の童子になって話あっているのだ。
「名医が来るぞ、俺たち退治されちゃう」「膏(こう)の上肓(こう)の下に隠れれば大丈夫さ」
やがて医の桓が到着、景公を診て曰く
「病は既に膏の上肓の下に至っており手遅れでございます、どうかお諦めください」
景公は礼を尽くし桓を秦に帰国させた。
公の病重いまま季節が過ぎ秋麦の収穫を迎え、これが病床の公にも献上された。
公は先に秋麦を食せないと予言した巫師を呼びこれをその場で註した。
(続く)

574 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/04/24(日) 18:33:56.56 0
(病膏肓その3)
だが、麦粥を口にしようとしたその時腹が張り、公は大急ぎで厠に入ったが
そのまま下に転落し命(原文では「卒」した)を落とした。
(古代中国の便所は汲み取り便所的なものではなく、下は堅い地面で高さもかなりある、墜死に近い感覚か)

「病膏肓に入る」、膏の肓の下、腹腔のうち最も深部で鍼も薬も到達し得ない部分という
一般的にはみぞおちのあたり。当然鍼治療は不可。胃の裏である膵臓のあたりではないかとも言われている。


576 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/04/25(月) 16:34:33.28 0
病気・医術系なら不気味な話盛りだくさんだからなー
三国志方技伝の華陀にもいろいろあるけど

・嚥下困難の患者にすっぱい蒜の和え物を3升(漢代の1升は約200ml)飲ませると、蛇を一匹吐き出した。
 華陀の家にお礼に行ってみると、家の壁には同じような蛇が束になってぶら下がっていた。
・広陵太守の陳登を診察したところ、魚の刺身の食べすぎで腹の中に寄生虫がいるとわかった。
 せんじ薬を飲ませると、ほどなく3升もの虫を吐いたが、頭が赤くてみなうごめき、
 半分ほどはまだ生の魚の刺身の姿をしていた。華陀は「三年後に再発しましょう」と予言したが、
 三年後には華陀がもういなかったので、陳登はそのまま死んでしまった。

635 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2011/07/22(金) 19:28:28.86 O
三国志呉書呉主伝より

以前より臨海郡の羅陽県には神がいて、自ら王表と名乗っていた。
この神は民間をうつり歩き、言葉を発し飲食をすることは人間と変わりなかったが姿を見せることはなかった。
別に紡績と呼ばれる女の召使いがいて、この神に仕えていた。
孫権は中書郎の李崇を派遣し、輔国将軍・羅陽王の印綬を授けて王表を迎えさせた。
王表は李崇に従って都へ上った。

王表は李崇や途中の郡守・県令たちと議論し、崇らは王表を言い負かせなかった。
王表は途中の山川に対して紡績を遣わしてその神々に挨拶させた。

王表が都に到着すると孫権は蒼龍門の外に王表の為の屋敷を建ててやり、しばしば近臣を遣わして酒食を持って王表のもとを尋ねさせた。
王表は水害や旱などの小さな事柄について予言をなし、それはよく的中した。

孫権が病んで死が迫ると、部将や官吏達が王表のもとを訪れて孫権の為に福を請うたところ、王表は逃亡し孫権は逝去した。

655 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2011/12/10(土) 21:59:51.24 0
フリースラントの伝統 by マルク・ブロック

「フリースラント人の間では、屍体さえ復讐を叫んだ。すなわち、フェーデ(復讐)に成功し、
近親がついに埋葬の権利を得る日まで屍体は家の中に吊されて乾かされたのである」 

687 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2012/04/23(月) 12:40:58.49 0
メキシコ女王伝説
h ttp://www.lead2001.co.jp/ritou/story/index.html
>島野浦で語り継がれる伝説・・・といっても、それはつい100年ちょっと前の出来事。
実際、政府も調査にのりだす程、広く信じられている伝説なのです。
>江戸時代の終わり頃、ある夏の日の出来事でした。
一隻のカツオ漁船が漁を終え、島への帰港中、
ふと波間に漂う大きな木箱のようなものを見つけました。
船中の12名は老船頭の命令で、その木箱を引き上げ、
手斧で開けてみることにしました。
すると中からは、白骨化した人間の顔がのぞいたのです。
髪はフサフサの金髪、そしてその周りにはキラキラ光る石や黄金の冠などが入っていたそうです。
これを発見した漁師達は祟りをおそれ、どこかに埋める事にしました。
そして「他言は無用」と漁師達はこの事を「秘密」にしたのです。
しかし・・・月日が経つうちにこの秘密は噂となって流れ出し、島の外からも木箱(宝)探しに来る人達が
出るようになったのです。戦時中、警察や軍隊も島に探しに来た程です。この間、いつしか木箱の中の
亡骸は「メキシコ女王」であると言われる様になったといいます(正確な根拠不明)。しかし木箱の行方は
知れず、未だどこに埋められているのか、流されてしまったのか、証拠が一切残っていない事から、
真相は謎のままです。

688 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2012/04/23(月) 12:42:56.84 0
>この話は、宮崎の考古学・歴史学者として著名な石川恒太郎氏の『新・日向ものしり帳』に
掲載されていたものからの再録である。 
(中略)この話は、その漁師たちによって伝えられたものであるが、だれ言うことなく、
これはメキシコ女王の遺体であったと言い出した。その後、この箱にはたいへん高価な物が
入っているに違いないというので、沖の小島やそこらの島を掘って宝探しに夢中になった
人が跡を断たないありさまである。 そこでメキシコでそのようなことがあったかというと、
オーストリアの皇帝フランツ・ヨゼフ一世の弟にマキシミリアンという人がおり、この人は
ナポレオン三世にそそのかされてナポレオンの後援のもとに1861年にメキシコに入って
皇帝となり、1867年まで皇帝の位についていたが、革命が起こって共和軍に敗れ、
ついに銃殺された事件があった。 だからそのマキシミリアンの王女、いや箱を開けて
みたのではないので王女か王子か分からないが、その一族の方の死体と考えられない
こともない。なんにしても日向漂着物語を飾る美しい伝説である。

出典:「郷土島野浦=語りつぐふるさと=」渡部誠一郎 編著 より



703 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2012/05/22(火) 13:57:19.30 0
東欧文学研究者の野口晶子がルーマニア・マラムレシュ地方で見たという墓碑銘

私はずうっとここに居る
ブライク・イリアナが私の名前
私の息子は五人いた
神よ、この五人の息子らを守りたまえ わけても、
グリガよ、神がおまえを許したもうことを
おまえが、私を死に追いやった
ビールを飲んで帰った日、
おまえが私をここに来させた
ここチャペルのうしろの原に
けれど、私の息子グリガよ、
おまえもいつかはここに来るのさ

704 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2012/05/23(水) 21:50:05.72 i
>>703
すげー気になる…
いつ何があったんだろ

723 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2012/08/08(水) 09:39:09.48 O
宋書に記載されていた話

晋の太安年間のこと、江夏の張聘が乗っていた牛が突然人語を話して言った
「天下がまさに乱れようとしているのに、私に乗って何をしようというのですか」
聘が懼れて家へ急いで帰ると、犬がまた人語を話して言った
「帰ってどうしようというのですか」
その後牛が立ち上がって人のように歩く姿が見られた。

聘がこれを占い師に語って卦を立てさせてみると、「天下に兵乱が起こり、その禍は一家にとどまるようなものではありません」とのことだった。

その年に張昌が挙兵してまず江夏を攻略し、聘は将帥となった。
ここにおいて五州の地が戦乱に巻き込まれ、聘は一族皆殺しとなった。


気味が悪い話だな…

746 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2012/08/29(水) 18:15:23.30 O
三国志に登場する華佗の話


劉勲が河内太守となったときのこと、二十近い年齢の娘がいたが左足の膝の上に腫れ物があって痒いが痛みは感じないとのことだった
腫れ物はいったんひいても数十日で再発し、こうしたことがもう何年も繰り返し続いていた

華佗を招いて診察してもらうと、診察を終えて佗が言った
「これを治すのは簡単です。米糠色の犬一頭と良く走る馬二頭が必要です」

縄を犬の首に巻くと馬に犬を引いて走らせ、馬が疲れると別の馬に交代させた
馬が合わせて三十里ほども走ると、犬は疲れて歩けなくなった
今度は人が犬を引っ張って歩き、前と合わせて五十里近くになった
そこで薬を娘に飲ませると、娘はすやすやと寝入って人事不省となった
そうした上で大きな刀子を用いて犬の腹を後ろ足に近いところで切り落とし、その切り口を腫れ物の口に向けて少し離しておいた
そのまましばらくすると蛇のようなものが腫れ物の中から出てきたので、すかさず鉄錐を用いて蛇の頭を横ざまに串刺しにした
蛇はしばらく皮膚の下で蠢いていたが、やがて動かなくなった
そこで引っ張り出してみると長さは三尺あまりで本物の蛇そっくりだったが、目のあるべきところには瞳がなく、また鱗が逆さまに生えていた

塗り薬を腫れ物に塗ると、七日で治った


体内に蛇…

751 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2012/08/30(木) 21:48:01.30 O
華佗の話には蛇が多いな
治療法を指示された人が蛇を吐いて治癒してからその蛇持参でお礼に行ったら、そんな蛇が大量にぶら下がってた話もあったね

758 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2012/09/02(日) 09:15:14.55 O
隋書に記載されていた話

開皇の末年のこと、ある人が知人の家に泊めてもらったところ、夜中にふと目覚めると二頭の豚が向かい合って話をしていた。
まず一頭が言った「もう歳も尽きようとしており、人々は明日には我らを供物として殺すだろう。どうにかしてこれを避けられないだろうか」
もう一頭が答えて言った「水北にある姉の家へ向かえば大丈夫だ」
そのままともに去って行った。

翌朝家の主人が豚を探したが見つけられず、泊めてもらっていた客は夜に見たことを語り伝えた。
客の言葉に従って探すと、主人は豚を見つけて連れ戻すことができた。


その後蜀王楊秀が罪を犯した為に帝がこれを殺そうとしたが、楽平公主が救った為に死を免れたのだった。
のち数年して帝が崩じたが、これが「歳が尽きる」という言葉が示していたものである。


773 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2012/09/13(木) 22:32:20.48 O
法苑珠林という本に記載された話


唐の斉州の人杜通達が貞観年間に県の命令で一人の僧侶を北へ送って行った
通達はその僧侶が持っていた経を入れる箱に上等な反物が入っているだろうと考え、その妻と計って僧侶を撃ち殺してしまった
僧侶が死の間際になって呪文を唱えると、一匹の蠅が現れて通達の鼻の穴に飛び入った
通達は必死になって蠅を取り出そうとしたがどうしても出すことが出来ず、とうとう目と鼻を病んだ
眉も髪や髭もみな脱け落ちてしまい、のちには精神までも病んだあとに悪病にかかって一年も経たずに死亡した

通達の臨終の際に蠅が鼻から飛び出し、今度は妻の鼻に飛び入った
妻も蠅を取り出すことの出来ないまま病を得て、一年あまりして死んだ


鼻から蠅が入って病気になって死に至る…こんな展開もあるのか

789 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2012/09/25(火) 12:41:36.68 0
マルコによる福音書16章1節〜8節

さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメと
が、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。
そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。
そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがして
くれるのでしょうか」と話し合っていた。 ところが、目をあげて見ると、
石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。 墓の中にはいると、
右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。
するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられた
ナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここには
おられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。 今から弟子たちと
ペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ
行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。
女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。
恐ろしかったからである。


聖書学者によると、原テクストはここで終わっていて、復活したキリストが
現れる後段は、後世の挿入だそうだ。
ここで終わりといわれると、えらく不気味というか、不思議な話のような
気がする…


793 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2012/09/28(金) 01:32:58.05 0
革命前のロシアで地理学者をしていたオッセンドフスキーの「アジアの人と神秘」に出てくる話

ミヌシンスク盆地の塩水湖の近くで製塩設備の調査をしていた時、十六本の円柱に囲まれた大きな石の墓標を発見した。
写真を二枚撮ったが、その晩ネガを現像してみると何も写っていない。
翌朝にもう一度撮影を試みても同様の結果であった。

その後再びミヌシンスク盆地を訪れて、知り合った回教僧からある伝説を聞いた。
かつてこの地にはアブク・ハンというウイグル人の族長がいたが、チンギス・ハーンの奸計によって殺されてしまった。
残されたウイグル人たちは彼が死んだ場所に墓を立て憎悪の言葉と永遠の呪いを記した。
財宝目当てに墓泥棒が幾度もやってきたが、いずれも地から立ちのぼる霧にまかれて奇怪な最期を遂げたという。
オッセンドフスキーは回教僧にその場所へ連れて行ってもらうことにした。

案内されたそこは、なんと例の十六本の円柱に囲まれた石の墓であった。

彼は再度写真を撮ったが、帰り道に馬車から投げ出されて写真機と種板は粉々になり、左腕に一生残る怪我を負ったそうである。



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